「星野仙一さんってどんな人?」
「阪神タイガースファンで星野さんに感謝している」
「星野仙一さんの監督時代の実績が知りたい」
倉敷商業高校から明治大学へ進学し、明大のエースとして通算23勝を挙げる活躍を見せた星野仙一氏は1969年に中日ドラゴンズにドラフト1位指名で華々しくプロ入りすることになります。
入団後は1年目から先発を任される活躍ぶりで、1974年には沢村賞と初代セーブ王を獲得し、宿敵巨人のV10を阻みました。
この活躍の裏にはドラフト会議で巨人から一位指名の約束を反故にされ中日ドラゴンズに入団したと言われる経歴があり、本人は巨人キラーという異名を持つほど、対巨人戦に対する闘志は並々ならぬものがあったことは多くの人に知られています。
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Influx 星野敦
引退後は監督としてその辣腕を発揮
1982年には2度目のリーグ優勝を飾り、その年限りで多くのファンに惜しまれつつも現役を引退することとなりました。
引退後は監督としてその辣腕を発揮することとなりますが、中日では1988年と1999年に、阪神では2003年にリーグ優勝へと導きます。
さらに2011年からは楽天イーグルスの監督として就任し、2013年にはついに初優勝を飾り、楽天を名実ともに日本一へと導くことに成功します。
その後2014年限りで監督も退任し、楽天の副会長職を務め、2017年には日本のプロ野球などで顕著は活躍をした選手や監督、コーチなどの功績をたたえ顕彰する野球殿堂入りを果たしますが、2018年1月に病により逝去します。
星野はその闘志あふれるピッチングで巨人キラーともいわれる異名を持ち、野球を深く愛するまっすぐな性格で一球入魂の厳しい勝負の世界に身を置く中で多くの名言を残していることでも知られています。
負けることが大嫌いで常に自分自身を奮い立たせ続ける中で培われた名言の中には、まるで勝負師のような厳しく激しい視線を送りつつも選手の個性を尊重して愛情を注いで指導する姿が目に浮かびます。
星野仙一さんの名言
選手を叱咤激励する中でも特に選手が約束したことをきちんと守らない、またはやる気がないことが見て取れる状況の時には、たとえ人前であっても容赦なく怒鳴りつけて改善させていたことで知られています。
強いものが勝つのではない。
勝ったものが強いのだ、不平等な世界だからこそひいきされるような選手になれ、などの言葉からは、ともすれば叱られずに育ってきた選手たちのひ弱な部分を何とか払しょくして気持ちを奮い立たせようとする熱い思いが感じられます。
人を愛せ、人を信じよ、人を生かせ、人を褒めよというモットーを掲げ、時に鬼のような形相で憎まれ役を買って出なければならないことも多かった中、チームを鼓舞しまとめ上げて導いてゆく力に長けた人物でした。
星野仙一さんの生い立ち
星野仙一は1947年岡山県児島郡福田町というところで星野家待望の長男として誕生します。
二人の姉を持ついわゆる末っ子長男ですが、星野がこの世に誕生したときにはすでに父親は48歳の若さで病により他界しており、星野自身は父の顔を知らずに成長します。
大黒柱の父を亡くした星野家は母子家庭を母が細腕でしっかりと支え、のちに野球界に偉大な功績を残した息子星野仙一を育て上げたと言われています。
幼い乳飲み子を抱え星野の二人の姉とともに家族を食べさせてゆくことは並大抵の努力ではなかったことと思われます。
苦しい暮らしの中でも母親は子供の将来を思い、当時の金額としてはおそらくかなりの大金であったはずのグローブを星野に買い与え、本人の希望する野球への道を作りました。
さらに、工場の寮母として働きながら3人の子供たちをそれぞれ大学まで進学させており、星野自身も苦労して自分たちを育て上げてくれた母親を深く尊敬していたと言われています。
強者には闘争心を前面に押し出して戦い、弱者には手を差し伸べる
子供時代の星野はやんちゃ坊主で人に負けることが大嫌いな性格でありながら、弱者に対しては惜しみなく愛情を注ぐ優しさを持っていた面があったそうです。
今にして思えば子供時代からすでに名選手、名監督としての人格を備えていたと言えるかもしれません。
強者には闘争心を前面に押し出して戦い、弱者には手を差し伸べる彼の心意気は、子供のころから育まれたものだったのでしょう。
そんな星野は明治大学1年生の時に慶応大学の2年生だった芙紗子さんと知人の紹介により出会います。
これは想像ですが、おそらくは熱い情熱を持った星野仙一青年のひとめぼれだったのではないかと思われます。
なんといっても後に妻となるその美しい女性は慶応のマドンナと呼ばれた人で、多くのファンを持つ憧れの存在だったからです。
そしてプロ1年目には芙紗子さんに堂々のプロポーズをし、1969年のシーズンオフに二人は結婚しました。
結婚後は二人の娘を授かり野球人生も順風満帆な日々でしたが、1997年には愛する妻をわずか51歳という若さで病によってなくしてしまいます。
まとめ
その後も監督として多くの功績を残した星野仙一は、自身もまだ70歳という若すぎる年齢でこの世を去ってしまいます。
自身が病に侵され病状がかなり悪化していても、親しい関係者にさえその旨を明かすことなく、最後は愛する妻の残してくれた二人の娘に看取られて静かに逝去したそうです。
最終更新日 2025年7月8日 by kikuch